息子が聴こえないとわかったとき、
母である私が音楽を楽しむことは、
許されない気がして、
当時家にあった音楽関係のものを、
全部捨てたことがあるんだと、
息子に話をしたことがありました。
3、4年前のこと。
息子が高校生の頃でした。
私はその後も数年間、
音楽に触れずにいたけれど、
ある時、手話つき、と書いてあった、
コンサートを聴きにいき、
会場で音楽を”楽しんで”いる、
聴覚にハンディをもつ方々と出逢い、
お母さんも、音楽を、
また聴き始めたんだと。
そのことを、
私なりにはかなり思いきって、
息子に話をしました。
彼は、こう言った。
「僕は生まれつき聴こえないから、
しかたないと思ってて、
お母さんには音楽を楽しんでほしいと思う。
でも、
もし、生まれ変わったら、
今度は聴こえたらいいな。」
・・・胸がつまりました。
聴こえない世界にも、
しあわせはたくさんある。
それはわかっているし、
聴こえない人の世界を、
”かわいそう”と思ってもいない。
でも、誤解を恐れずに言うならば、
彼が望むのなら、
代われるものなら、
いますぐにでも、
代わってやりたいと思う。
音を、聞かせてやりたい。
あの時、本当にそうおもった。
私は聞こえている耳を、
ちゃんとありがたく使っているんだろうか。
聞こえることをあたり前にしてないだろうか。
耳だけでなく、心と目をプラスして、
人の話を聴く努力ができているんだろうか。
そんなことを思う。
聴く。
すごくテーマ。
ずっとテーマ。
一生電話で話をすることはできないんだと、
彼の難聴がわかった時に思ったけれど、
時代は変わり、
スカイプやLINEで話ができるようになりました。
これもまた、ありがたきこと。